第二次世界大戦から帰国
して、どうやって生きていけばいいのか……戦争で体も壊していた私は最初は必死でした。
「食べる」という事が全てでした。野菜を育てる事に着手しました。当然お
金も無ければ何も出来ないので早朝から田無から新宿の市場まで歩いて卸しにいきました。今では考えられませんよね。あの頃の時代背景は。そうやって家内、
親、兄弟の面倒をみて、生計をたてました。
日本経済の復興と共に次第に生活も安定して娘も成人してきた50歳の頃、たまたまぶどうを食べた時、それはそれはとても「美味しかった」ものでした。そ
の”たまたま”の巡り合せだったのですが、「美味しい葡萄を育てたい!」と思ったのです。
当初は家族全員から大反対されたものです、50にもなってまだ新しい事や
るの?ってね。それでも私はやってしまいました、あはは。
木を植え棚をつくり、最初にぶどうができた時は本当に感動しました。
それでも最初は全く美味しくなかったんです。酸っぱくて酸っぱくて。ほか
にも、粒が割れたりし、本当に上手くいかなくってねえ………一時期は止めることも考えました。それでも諦めず、色々な方からぶどうのお話を聞いて、頑張っ
てきました。
それから10年位でしょうか、ぶどうに甘味が出てきて。50歳の頃、たまたまぶどうを食べた時のあの味が
したんです!その時はそれは喜びましたよ!
その頃からお客さんにも恵まれて、次第に発送しても自信の持てるぶどうが
出来るようになりました。家内と共に、頑張ってきた甲斐がありました。また、販売当初から娘姉妹
にも手伝わせ、今でも一緒に仕事ができております。ぶどうを作って40年以上たった今は孫
も手伝っており、引き継いでいく事は勿論ではありますが私はまだまだ若い者に負けるわけにはいきません、あはは、本気ですよ。今でも野菜の栽培はしており
珍しい
大きなキウィフルーツを初めとし、まだまだ美味しい果物作りには余年がありません。有機栽培で体にいいものを採る事が大事と思っておりますので、農薬も最
低限しか使わない事を念頭においてます。いつでも私のぶどう園に遊びに来てくださいね。
創業者 矢ヶ崎 登代治
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